2011年9月27日火曜日

ゆっくり受け止めたい

幸い私は家族が無事でした
目を伏せていた部分もあったのですが
少しづつ少しづつ現状を把握しようと記事やブログを読ませていただいています

読みながら手が震え、涙で画面が見えなくなるほど
本当に酷い震災でした
当事者にしか分からなかった現状
現場の跡形から、最後の様子を想像してやりきれない思い
現場でレスキュー作業にあたった方の苦労
数え切れないほどの痛みが広がっていました

残された家族はこの先どうやって生きていくのか
妻や子供、恋人を亡くされた方・・・

何も出来ないけど
私なりに悲しみに寄り添っていく方法を模索したい
皆で寄り添えれば悲しみが半減する・・
なんて簡単な事じゃないのは分かっているけど
寄り添う気持ちだけは持ち続けたいと思います

震災で命が助かったという意味を考えながら

昔、お腹の中で子供を亡くした際に書いた詩です
なんとも恥ずかしいのですが
当時は手探りの中でも、子供の存在や自分の心の拠り所を捜していました
「意味」という言葉にのせて使命感のようなものに私は頼っていたのでしょう
頼るものがなければ生きていけなかった気がします
ご紹介↓

意味があるんだ


無駄なことなんて
この世にはない
あなたを授かった意味も
必ず存在する

あなたを失って
命の大切さを知った
同じ境遇の人が
こんなにも多くいることを知った
そして悲しみに向きあい
前向きに頑張っている人たちに出会った

あなたがいなければ
知らなかった世界
世の中には
多くの命がある
色んな形の命がある
そしてそれを受け取る
色んな人がいる

命の塊
それが地球
私達も生きている

生きているからこそ
何かを感じ
何かを受け取る

あなたの分まで
感動も悲しみも
沢山感じたい

あなたがいた意味を
けして忘れない為に









ピックアップ記事 祖父が悲しみの手記 「泥の中の孫を息子はみつけた」

新聞からピックアップ、ご紹介いたします

祖父が悲しみの手記 「泥の中の孫を息子はみつけた」(SANKEI EXPRESS

 http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/event/disaster/507121/

息子は執念で泥に埋まった孫の遺体を見つけた。東日本大震災の津波にのまれた岩手県釜石市の避難所で長男の妻と6歳の孫が犠牲になった釜石市定内(さだな い)町の無職、菊池通幸(みちゆき)さん(63)が産経新聞に手記を寄せた。孫の姿を求め遺体安置所を回った1カ月間の苦しみ、泥だらけの遺体と対面した ときの悲しみ。手記には残された家族の癒えぬ傷がつづられている。

■お父さんの執念
《4月7日 歯みがきをしていたら辰弥から電話が入り、涼斗(すずと)が見つかったと、ふるえる声で連絡が来た。私もあわてた》
震災があった3月11日、長男の辰弥さん(35)の妻、琴美さん=当時(34)=と、体調不良で保育園を休んだ長男の涼斗君=同(6)=は、釜石市鵜住居 (うのすまい)町にある琴美さんの実家にいた。2人は近くの鵜住居地区防災センターに逃げ、津波にのまれた。センターは直前の津波訓練で避難先になってい た。
辰弥さんは職場、長女の風音(かざね)ちゃん(3)は保育園にいて無事だった。琴美さんの遺体とは18日、遺体安置所で対面した。セ ンター2階で見つかり、《間違いなく琴ちゃんだった。きれいな顔をしていた。本当に残念でくやしい》。顔に化粧をして浴衣を着せ、納棺した。
火葬は済ませたが、涼斗君が見つかるまで葬式を執り行う気にはなれず、辰弥さんらと遺体安置所やセンターを捜し歩く。《センターの東側河川方向を捜索したが、どうしても発見できない。時間だけが過ぎていく。気があせる。他人の写真、アルバムを発見して届ける日々が続く》
4月3日にはセンターでテーブルなどの下敷きになっていた女性の遺体を見つけた。《ひざをついた状態で前かがみになり、顔が泥の中にべったり付いていた。腕には手提げバッグがありました》《かわいそうすぎる。手を合わせ泣いた。孫のことを思うと心配で心配で泣けてくる》
■「毎日泣く日々」
7日に涼斗君の遺体を見つけたのは辰弥さんだった。毎日のように捜し回ったあのセンターの1階で、両手足や顔が泥に埋まっていた。額をぶつけ、鼻血を出した跡もあった。「2階で引き波でさらわれ、琴ちゃんと離れ離れになったのではないか」と思い、胸が締め付けられた。
《何回も見てる場所なのに見つけてやれなかった。本当にごめんな、ごめんな…。辰弥はやっぱりお父さんの執念で涼斗につながったと思った。お父さん、涼斗ここにいるよ、ここだよと言ったと思う》
湯につけたタオルできれいに遺体をふき、パジャマを着せて棺に納めた。大好きなポケモンのグッズ、4月の小学校入学式で履くはずだった革靴を入れた。
8日にセンターで警察による大規模な捜索が行われたというが、思いは複雑だった。《早くやれば、早く発見できたと思うと腹が立ってしょうがない。多くが避難した場所で死人も多く、行方不明者も多い現場を後回しにした》
9日には火葬場へ向かう際に保育園先生たちが駆け付けた。園長が卒園証書を読み上げたとき、無念で涙がこみ上げた。《毎日泣く日々。でも2人そろって葬式ができてよかった》
葬式は23日に遠野市内の寺で行われ、保育園の子供たちも参列。祭壇の前で涙を流す子供たちに女性の先生が「さあ歌いましょう」と声をかけ、みんなが涼斗君のために歌った。
震災から2カ月が過ぎたた今も9000人以上が行方不明で、多くの家族が不安、焦りに苦しみ続ける。
《いまだに発見されず、行方不明の皆さんが1日も早く見つかるよう祈るだけです》
□□□
≪避難場所で犠牲「うやむやにしたくない」≫
東日本大震災から2カ月近く過ぎた5月上旬、菊池通幸さんは手帳の記録と記憶を頼りに手記をしたため始めた。長男の妻の琴美さん、孫の涼斗君が命を落とした場所が津波訓練の避難先に設定されていたことを「うやむやにしたくない」と思ったからだ。
岩手県釜石市によると、現場の鵜住居地区防災センターは地震直後に逃げる1次避難所ではなく、地震後の避難生活を送る拠点避難所。だが震災8日前の訓練で、釜石市は高齢者の体力に配慮して住宅地にあるセンターを避難先にした。
震災時、大勢が訓練通りに避難して50人以上が犠牲になった。野田武則市長は3月下旬、「訓練でセンターを避難場所にしたことは市側の甘さ」と答えたが、菊池さんは「市から説明を受けておらず納得できない」と憤る。
妻子を失った辰弥さんと風音ちゃんは夜、仏壇のある茶の間で寝る。風音ちゃんは保育園から帰ると、仏壇に「お母さん、お兄ちゃんただいま」と話しかける。そして「お母さん、お兄ちゃん遅いね」と聞いてくることもある。
菊池さんは誓う。「涼斗の分も、風音を守り、幸せにする」
(高久清史/SANKEI EXPRESS





2011年9月23日金曜日

好きな曲

以前から好きだった BUMP OF CHICKEN

震災以来は聞けなくなってた曲がありました
いつも途中でやめてしまっていましたが、今日涙を流しながら聞きました



supernova BUMP OF CHICKEN ★★pray for japan★★




歌詞の紹介


歌手 BUMP OF CHICKEN
作詞 藤原基央
作曲 藤原基央

熱が出たりすると 気付くんだ 僕には体があるって事
鼻が詰まったりすると 解るんだ 今まで呼吸をしていた事

君の存在だって 何度も確かめはするけど
本当の大事さは 居なくなってから知るんだ

延べられた手を拒んだ その時に 大きな地震が 起こるかもしれない
延べられた手を守った その時に 守りたかったのは 自分かもしれない

君の存在だって もうずっと抱きしめてきたけど
本当に恐いから 離れられないだけなんだ

人と話したりすると 気付くんだ 伝えたい言葉が無いって事
適当に合わせたりすると解るんだ 伝えたい気持ちだらけって事

君の存在だって こうして伝え続けるけど
本当のありがとうは ありがとうじゃ足りないんだ

僕らの時計の中 ひとつだけでもいいから
本当を掴みたくて 本当を届けたくて

歳を数えてみると 気付くんだ 些細でも 歴史を持っていた事
それとほぼ同時に 解るんだ それにも 終わりが来るって事

君の存在だって いつでも思い出せるけど
本当に欲しいのは 思い出じゃない今なんだ

君を忘れた後で 思い出すんだ 君との歴史を持っていた事
君を失くした後で 見つけ出すんだ 君との出会いがあった事

誰の存在だって 世界では取るに足らないけど
誰かの世界は それがあって 造られる

君の存在だって 何度も確かめはするけど
本当の存在は 居なくなっても ここに居る

僕らの時計は 止まらないで 動くんだ

2011年9月12日月曜日

震災から半年

今日で6ヶ月。

半年を区切りに行方不明者の死亡届の提出を考えている方もいるそうです

死亡届、被災3県で3281人 震災による行方不明者(河北新報)


仙台法務局と盛岡、福島両地方法務局の直近の集計が出そろった2日現在、宮城、岩 手、福島の3県では震災による行方不明者3281人について死亡届が提出され、うち3250人分が受理された。不明者の家族の約8割が死亡届を提出してお り、震災の発生から半年を前に、心に区切りを付けようとしている。
受理数は宮城県が最多の1630人。うち石巻市が560人、女川町が325人、気仙沼市が280人、南三陸町が260人だった。岩手県は1429人で、大槌町が503人、陸前高田市が309人など。福島県は191人だった。
仙台法務局は「届け出は6月がピークで、初盆の8月にかけて緩やかに増加した。届け出をしていない家族にとっては、心情的に来年3月の震災1年が区切りになるのではないか」とみている。

2011年09月11日日曜日


そんな中


まだ待っていたい・・・「あなた」捜す日々 不明者家族複雑(河北新報)

 宮城、岩手、福島3県で、東日本大震災による行方不明者数は約4100人に上る。発生から半年を経て、苦渋の思いで死亡届を提出する家族が増える一方、「帰り」を待ち続ける姿もある。心の底にやり場のない悲しみと喪失感が沈殿する。

  「あの日から何度も何度も捜し歩いた。お父さんのおかげでダイエットができたわね」
宮城県石巻市雄勝町。がれきが散乱する自宅跡にたたずみ、高橋千賀子さん(60)が、疲れた表情に無理に笑みを浮かべる。
夫伝(ゆずる)さん(64)は高台の自宅で津波にのまれた。「ここにいれば大丈夫」。伝さんはそう言っていた。千賀子さんが車を山の上に移動している間に、想像を超える津波が家を襲った。
 千賀子さんは連日、足を棒にして伝さんを捜した。遺体安置所にも繰り返し通ったが、見つからなかった。
死亡届は出していない。葬儀も行っていない。あり得ないとは思いつつも、「どこかで生きているかもしれない」という期待を捨てきれない。千賀子さんは「1年ぐらいはこのまま待っていてあげたい」と言う。
宮城県女川町の会社員末永博さん(49)は8月、津波で行方不明になった妻(47)の死亡届を提出した。14日に遺体で見つかった次男(11)をはじめ犠牲になった家族、親族の合同葬儀を行う。
行方不明のままの葬儀には抵抗があるが、末永さんは「いつまでも悲しんでいられない。気持ちを整理するためにもやろうと決めた」と言う。
 先日、次男と妻の夢を見た。夢の中で自分に抱き付いてきた次男の体は温かかった。
     「いつもそばにいるから。そう励まされた気がして…」
2011年09月11日日曜日
人それぞれで、区切りと思える日は違うと思いますが、時間によって区切りと思ったり、何かのきっかけによって区切りと思えたり・・・・

震災から半年、 色んな思いが詰まった日となったのではないかと思います。

黙祷・・・

東日本大震災の手記(塩釜)

本サイト
hand in hand

において、宮城県塩釜市での手記をご紹介させていただきました

東日本大震災の手記

塩釜で被災者支援として活動している「ままのて」で
震災から学んだ事伝えたい事」 としてアンケートをお願いしているのですが
そこで回答いただいた中からのご紹介です

HPに載せていただくことを承諾していただきありがとうございます



近隣に比べ被害が少なかった塩釜市でも
8月29日 現在で 
死者47名 (男性26名 女性21名)
市内で発見された方は21名 (市民の方17名、市外の方2名、身元不明の方2名)
となっています